障がいと共に戦う。
日本障がい者レスリング連盟
トピックス
この度、引退されたファントム船越選手はアマチュアプロレスラーの先駆者です。 現在のプロレス界では珍しく無く、某プロレス団体のトップ選手達には学生プロレス出身が多く活躍されてます。 私が主宰してました『SPWF』の第一号選手としてプロの仲間入りして頂き、その後は各団体等で活躍され、当大会にて引退セレモニーに至りました。 今後のファントム船越選手のご健勝とご多幸を心よりお祈り致します。 「お疲れ様でした」
2024年7月14日 闘宝伝承2024が開催されます。 当連盟総括、谷津嘉章選手が出場いたします。 ●日時:2024年7 […]
北日本新聞の〔天地人〕に当団体統括、谷津嘉章選手が紹介されました。
定食居酒屋はるいち様に募金箱を設置していただきました。
5月6日、天龍プロジェクトpresents『夢の架け橋2024』が開催されます。 当連盟から谷津嘉章選手が出場いたします […]
7月7日に小田原にて「日本障がい者レスリング連盟プレゼンツチャリティー大会〜Road to PETER PAN 2024 […]
会長のご挨拶
日本障がい者レスリング連盟会長勝山 宗一
謹賀新年。
いよいよ2024年が始まります。昨年3月にスタートした当連盟ですが様々な活動に勤しんでおります。
谷津統括始めメンバーの健常者大会への参戦、プロレス大会に谷津統括が出場する際のアピールなど、障がい者レスリングの啓蒙に向け、機会を見つけてはPRに励んでおります。
並行してルールの検討整備や拠点設立の準備等々も進めております。一朝一夕とは参りませんが、皆がそれぞれできることに全力を傾けております。
まだまだ時間は必要かも知れませんが皆様のご理解とご支援が支えになります。
引き続きよろしくお願いします。
理事・役員の方々
会長(理事長) | 勝山宗一 |
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副会長 | 松井道夫 鈴木浩 |
名誉顧問 | 福田富昭 今泉雄策 大島大和 |
監事/総務 | 釼持洋祐 |
監事 /会計 | 沖野陽子 |
総括 | 谷津嘉章 |
広報/アドバイザー | 柴田惣一 |
広報/デジタル | 高木宥太郎 |
プロレス | 吉田和則 梅本和孝 |
レスリング/プロレス | 島田宏 今泉朝雄 |
グラップレスリング | 平野洋一 |
総務 | 山崎友之 鳥海 力 沖野信五 西田友美 長嶋誠司 大﨑輝政 糟谷秀行 椎野敬二 山近義幸 |
オフィシャル・アドバイザー | 川村義肢株式会社 |
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連盟の主な活動
連盟の活動及び事業
2019年6月25日、糖尿病を悪化させ右足のひざ下を切断した谷津嘉章が、自ら先頭に立ちパラリンピックでの競技採用を目指してスタートさせた障がい者レスリングです。 レスリングは体幹を鍛えるのに最高のスポーツであり、トレーニングによって体は鍛えられ、精神面も充実していきます。心身ともに成長できるのです。 足利工大付属高校でレスリングを始め日本大学で大活躍した谷津は、1976年モントリオール五輪で8位入賞。金メダルを有力視された80年モスクワ五輪は日本がボイコットし涙を飲みましたが、プロレスラーに転向し「凄いヤツ」の異名通り大暴れしました。 エリートアスリートとして人生を送ってきた男の挫折は、厳しかったはずですが、パラレスリングの設立という新たな目標に向かって動き出しました。 すでに日本障がい者レスリング連盟がスタートしました。英語名は「NIPPON CHALLENGED WRESTRING ASSOSIATION」です。パラレスリングにCHALLENGする人たちをサポートし、ともに新たな競技を発展させるための連盟なのです。 レスリングに取り組んでいながら障がいを負った人、他の競技に打ち込みながら、ハンディを背負った人、初めてパラレスリングに挑む人ら競技者はもちろん、ボランティアで協力してくれる人、サポーター・支援の方々…多くの人によって、新競技パラレスリングは国際化、そしてパラリンピックでの開催実現に向けて進んでいきます。 また、障がい者の枠に限定せずに男女を問わず、インクルーシブなポリシーを尊重していきます。 皆さん、スクラムを組んでパラレスリングを大きくしていきましょう。
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サポーター
レスリングとは
レスリングは古代オリンピックでも争われ、人類最古の格闘技です。レスリングの語源である「wrestle」には、「組み合う」という意味のほか「人や困難と闘う」という意味があり、西洋の格闘技の基礎ともなっています。 近代オリンピックでは第1回の1896年アテネ大会から採用され、第2回1900年パリ大会を除き、今に至るまで継続して実施されています。 日本のレスリングの歴史は、1924年パリ大会に参加した内藤克俊(かつとし)に始まります。当時米ペンシルベニア州立大学に留学していた内藤が、日本代表としてフリースタイルのフェザー級に出場し、銅メダルを獲得しました。しかし日本国内でレスリングは広まりませんでした。 日本でレスリングが本格的にスタートしたのは1931年に、早稲田大学でレスリング部が発足してからです。選手が育成され、翌1932年ロサンゼルス大会、続く1936年ベルリン大会に参加しました。 ただ、第二次世界大戦中は敵性スポーツとしてレスリングそのものが禁止され、戦後、国際レスリング連盟(Fédération Internationale des Luttes Associées=FILA)、現在の世界レスリング連合United World Wrestling=UWW)へ復帰しました。 1952年ヘルシンキ大会では、フリースタイルのバンタム級に出場した石井庄八が、日本選手団全体で唯一の金メダルを獲得するなど、敗戦に打ちひしがれていた日本に明るいニュースをもたらした。その後、多くの金メダリストを輩出し、世界の強豪国としての地位を築きました。 レスリングの醍醐味は、何の道具も手にしないで、衣服をつかまず、体同士でぶつかりって、技を掛け合うという何ともシンプルな競技であること。体一つでパワーとスピード、テクニックを駆使して激突します。1対1の勝負で、互いに技を使って相手を組み伏せ、両肩をマットに押しつけ合います。 長い間、男子のみの競技でしたが、2004年アテネ大会から女子も加わりました。体重による階級別で試合が行われるため、体格の差に関係なく活躍できます。
登録者第一号ご挨拶
パラレスラー谷津 嘉章
いよいよ日本障がい者レスリング連盟がスタートを切りました。英語名「NIPPON CHALLGED WRESTLING ASSOCIATION」にすべての思いが込められています。 「CHALLGED」すなわち「挑戦」。本連盟をけん引する谷津嘉章の口癖が「何事もチャレンジ 挑戦だ」であります。最初の一歩を踏み出さない限り、何も始まりません。その前途に多くのハードルが立ちふさがり、困難が待ち構えていようとも「GO FOR BROKE」すなわち「当たって砕けろ」であります。こちらは谷津の兄貴分だった亡きマサ斎藤さんがよく口にしておられました。 谷津は文字通り挑戦を繰り返してきました。数々の問題に全力で真正面からぶつかり、時にはあえて一歩引き、押しては引いてきました。 レスリング日本代表として1976年のモントリオール五輪に参加し8位に入賞。金メダルが期待された80年のモスクワ五輪に向けて順調に力を蓄えていたのに、日本がボイコットするという悲劇に見舞われました。 それは悔しかったでしょう。でも谷津は気持ちを切り替えプロの道に進みました。プロレスラーとして頑張りました。新日本プロレス、全日本プロレスを始め日本プロレス界を盛り上げました。 1986年6月には、当時、世界中で話題となっていたプロとアマチュアの壁を取り払うために、谷津は大きな成果を上げています。プロとして絶対に負けられないというリスクを承知の上で、レスリング全日本選手権に出場し、見事に優勝しました。 現在は五輪にもプロ選手の参加が当たり前になっていますが、谷津の挑戦がプロとアマチュアの交流実現のきっかけとなったのです。 プロレスラーとしても数々のタイトルを獲得するなど大活躍していた谷津ですが、2019年6月、病を悪化させ右ひざから下を失います。アスリートとしての人生は終わったと絶望してもおかしくありません。 それでも持ち前の前向きな生き方で即座に前進します。義足のプロレスラーとして頑張った人たちがいたのです。負けるわけにはいきません。 リハビリを始め、義足を装着し走り始めました。そのころ、2020東京オリンピックの聖火ランナーが話題になっていました。やるぞ! 目標ができました。 コロナ禍により、一年先送りとなりましたが、トーチを掲げた谷津は見事に走り切りました。義足の聖火ランナーの大役を見事に果たしたのです。 義足のプロレスラーとしてリングにも上がりました。進化する義足を見事に操りファイト。その勇姿から勇気と元気を分けてもらった人が、たくさんいます。 義足でも闘える。身をもって証明した谷津は同じ境遇にある人たちにもチャレンジしてほしいというのです。障がい者でもやれる。レスリング経験者はもちろん、レスリングを新たに取り組む人も闘える。 障がい者スポーツを楽しみましょう。その先にパラリンピックでのレスリング種目の採用を我々は見据えています。 レスリングは体幹を鍛えるのに最適のスポーツです。他のスポーツを楽しむためにも、日常生活をより充実させるためにもこれ以上のトレーニングはありません。 チャレンジャー・谷津の現在の夢は、パラ・レスリングの創設です。その一歩が踏み出されました。皆さん、一緒に進みましょう。